
2026年10月18日
旧豊後森機関庫と角牟礼城跡 扇形の機関庫と森藩久留島氏の庭をたどる
大分県玖珠町の旧豊後森機関庫は、転車台を中心に扇の形に広がる、九州に現存する唯一の扇形機関庫とされます。角埋山の角牟礼城跡と、森藩久留島氏の陣屋に残る旧久留島氏庭園まで、玖珠町の歩みをたどります。
旧豊後森機関庫(きゅうぶんごもりきかんこ)は、大分県玖珠町のJR豊後森駅のそばに残る、扇形の機関庫です。機関庫は、機関車を収めておく車庫のことです。玖珠盆地の北側の角埋山(つのむれやま)には、山城だった角牟礼城(つのむれじょう)の跡があります。そのふもとには、江戸時代の森藩の陣屋の跡と、藩主が造らせた庭が残ります。ここでは機関庫から城跡、陣屋の庭へと、玖珠町の歩みをたどります。
扇形に広がる旧豊後森機関庫と転車台
機関庫は、玖珠町のシンボルとされる、鉄筋コンクリート造りの平屋です。12本の引き込み線を収め、前にある転車台を中心に、半径48mの扇の形をしています。平らな屋根をのせた建物は、豊後森駅の南東に広がる旧豊後森機関区の、東の端に建っています。機関区は、機関庫や転車台をそなえた、機関車の拠点のことです。
転車台は、車両をのせて回し、向きを変える台です。蒸気機関車には前と後ろの区別があり、向きを変えるには転車台が要りました。機関庫が扇の形をしているのは、この転車台を中心に引き込み線を並べたためです。この転車台の橋桁の端には鋼の運転室が付き、木の窓枠や操作盤が、使われていたころのまま残ります。鋼の橋桁は、直径18.5mの円いくぼみの上にかかっています。
機関庫は、久留米と大分を結ぶ久大線の要として、玖珠町をおおいに栄えさせました。完成は1934年(昭和9年)11月で、久大線が全線開通したのと同じときです。
外壁の弾痕と保存の歩み
機関庫の外壁には、弾痕(弾が当たったあと)が残ります。太平洋戦争のさなかの1945年(昭和20年)、機関庫は米軍機の機銃掃射(機関銃で撃つ攻撃)を受けました。戦争中の機関庫は、軍事輸送の拠点でもありました。壁に残るあとは、戦争の記憶を伝えています。
1970年(昭和45年)、久大線のディーゼル化にともない、機関庫は蒸気機関車とともに役目を終えました。
機関庫を残そうと、2001年(平成13年)に地元の有志が保存の会を立ち上げ、署名を集めました。2006年(平成18年)には、玖珠町がJR九州から機関庫と敷地を買い取っています。2009年(平成21年)には、機関庫と転車台が、経済産業省の近代化産業遺産に認定されました。近代化産業遺産は、日本の近代化を支えた産業の遺産のことです。
2012年(平成24年)8月13日には、九州でただ一つ残る扇形機関庫として、国の登録有形文化財になりました。登録されたのは、機関庫1棟と転車台1基です。
難攻不落の山城だった角牟礼城跡
角牟礼城跡は、古くから石垣のある山城として知られてきた城の跡です。三方を急な斜面に囲まれ、切り立った岩肌の見える角埋山は、守りに向いた天然の要害でした。城は、玖珠盆地の北側にあるこの山の、標高577mの山頂に築かれました。山は「角埋」、城は「角牟礼」と書き、字が違います。
城の置かれた場所は、玖珠盆地から豊前へ抜ける道の要所でした。豊前は、いまの福岡県東部と大分県北部にあたる昔の国です。玖珠盆地のまわりはメサ(卓状台地)と呼ばれる山々に囲まれ、角牟礼城はこの地形をうまく生かして築かれました。メサのことは、伐株山の記事にまとめています。
城の名が初めて史料に出るのは、1475年(文明7年)の「志賀文書」です。久寿年間(1154〜56年)に源為朝が築いたとする伝えもありますが、確かではありません。難攻不落の城として名が知られるのは、薩摩の島津氏の軍勢に攻められても、城が落ちなかったためです。戦国時代の角牟礼城は、豊後の境目を守る城として、大友氏に重んじられていました。
城跡には、穴太積み(あのうづみ)と呼ばれる積み方の石垣や、本丸跡・二ノ丸跡などが残ります。穴太積みは、織田信長の安土城と同じ技術とされます。土塁で囲んだ中世の山城は、こうした石垣を備えた、近世の城に改められたとされます。
城跡は、2005年(平成17年)3月2日に国の史跡に指定されました。角埋山は、名勝「耶馬渓」の「角埋山の景」の範囲でもあります。耶馬渓のことは、三日月の滝の記事で取り上げています。
城を持たなかった森藩久留島氏と陣屋
1601年(慶長6年)、玖珠郡などを治める森藩が開かれ、角埋山のふもとに陣屋が置かれました。陣屋は、城を持たない大名が藩の政治をとった屋敷です。それまで玖珠の拠点だった角牟礼城は、このとき廃されたとされます。藩主の来島長親が、城を持つ格式を認められていなかったためです。
来島氏はそれまで、伊予国の来島(いまの愛媛県今治市)を治めていました。瀬戸内海で村上水軍の一つとして働いた、来島水軍の流れをくむ家です。
2代藩主の通春は、1616年(元和2年)に、名字を来島から久留島に改めました。旧久留島氏庭園の名の「久留島氏」は、この家のことです。
末広山を生かした旧久留島氏庭園
森陣屋の跡のまわりには、武家屋敷の地と、町人の町からなる城下町が広がります。旧久留島氏庭園は、その陣屋の跡の西にある、末広山(すえひろやま)という丘を使った庭です。末広山の高低差や地形、眺めを生かして3つの庭が置かれ、園路で結ばれています。庭を歩いてめぐる、回遊式の庭です。
藩主御殿庭園は、巨大な石を多く用いた、池を中心にした池泉庭園です。末広山の東の斜面とすそを使い、藩主の御殿に面して造られました。丘の西側では、清水御門という門の前の堀の一部が、庭に仕立てられています。茶屋の栖鳳楼(せいほうろう)のまわりの庭は、末広山の南の端にあります。
庭を造らせたのは、8代藩主の久留島通嘉(みちひろ)です。通嘉は、陣屋の中の三島宮(いまの末廣神社)を造営したときに、あわせて3つの庭を造らせたとされます。石垣や栖鳳楼も築き、陣屋を城構えのように整えたといわれます。三島宮は、来島氏のゆかりの地、伊予の大三島にある大山祇神社から、祭神を迎えた神社です。
栖鳳楼は2階建ての茶屋で、天守に見立てて建てられたといわれ、「紅葉の御茶屋」とも呼ばれます。栖鳳楼は、大分県指定有形文化財です。庭は、2012年(平成24年)1月24日に国の名勝に指定されました。
出かける前に
扇形の機関庫と転車台、難攻不落の角牟礼城跡、森藩久留島氏の歩みと陣屋の庭をたどりました。この記事は2026年10月に書きました。機関庫や城跡のようすは変わることがあるので、出かける前に、玖珠町観光協会の案内で確かめてください。
よくある質問
- 旧豊後森機関庫はどんな建物ですか。
- 大分県玖珠町のJR豊後森駅のそばにある、転車台を中心に扇の形に広がる機関庫です。1934年に久大線の全線開通と同時に完成し、2012年に転車台とともに国の登録有形文化財になりました。
- 機関庫は、なぜ扇の形をしているのですか。
- 前にある転車台を中心に、12本の引き込み線を並べているためです。蒸気機関車には前と後ろの区別があり、向きを変えるのに転車台が要りました。
- 角牟礼城跡はどんな城跡ですか。
- 玖珠盆地の北側にある角埋山の、標高577mの山頂に築かれた山城の跡で、国の史跡です。島津氏の軍勢に攻められても落ちず、難攻不落の城として知られます。
- 旧久留島氏庭園はだれが造らせた庭ですか。
- 森藩の8代藩主、久留島通嘉です。陣屋の中の三島宮(いまの末廣神社)を造営したときに、末広山を使った3つの庭を、あわせて造らせたとされます。




