
2026年10月18日
岡城跡と竹田の城下町 断崖の石垣と荒城の月・七ツ森古墳群をたどる
大分県竹田市の岡城跡を中心に、古墳時代前期の七ツ森古墳群、中世の山城から岡藩の居城になった城の歩み、岡藩の城下町、「荒城の月」と瀧廉太郎のゆかりを、時代の順にたどります。
岡城跡は、大分県竹田市の、断崖に囲まれた丘の上に残る岡城(おかじょう)の跡です。建物はなく、崖の上に高く積まれた石垣が長く連なります。城の西には、岡藩の時代に整えられた城下町が広がります。市の西部の台地には、岡城よりも古い、古墳時代の七ツ森古墳群が残ります。
断崖の上に残る岡城跡の石垣
城跡があるのは、北を稲葉川、南を白滝川にはさまれた尾根の上です。まわりは切り立った崖で、二つの川が天然の堀になっています。城は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸などの曲輪(くるわ)からなります。曲輪は、石垣や堀で区切った城の中の区画のことです。二の丸と三の丸の北側の高い石垣は、城跡の中でもとくに見ごたえがあるとされます。
本丸からは、くじゅう連山が見えます。阿蘇山と城下町を見渡せる場所も、城跡の中にあります。寝ている牛に見立てた城の形から、臥牛城(がぎゅうじょう)という別名もあります。城跡は1936年(昭和11年)12月16日に国の史跡に指定され、日本百名城の一つにも数えられています。
古墳時代前期の七ツ森古墳群
七ツ森古墳群(ななつもりこふんぐん)は、竹田市菅生の戸上(とうえ)地区の台地にある古墳群です。国道57号沿いにあり、1959年(昭和34年)5月13日に国の史跡に指定されました。
国の史跡の古墳は4基で、前方後円墳と円墳が2基ずつです。名のとおり、もとは7基あったと考えられています。前方後円墳はどちらも柄鏡式と呼ばれる形で、前方部が細長くのびています。柄鏡は、柄のついた鏡のことです。
2基の前方後円墳は、この地方で最も古い畿内型の古墳と推定されます。畿内は、いまの奈良県・大阪府・京都府のあたりを指す、古い呼び名です。形や石棺のつくり、腕輪や小刀などの出土品から、古墳時代前期の築造とみられます。最も西の円墳では、舟形の石棺の石枕が小さいことから、生まれて間もない幼い子が葬られたと考えられています。
古墳のまわりで群れて咲くのは、野生の彼岸花です。地元の人たちが、荒れていた古墳の敷地を整えはじめてから、少しずつ広がりました。花の数は、約20万本といわれます。
中世の山城から岡藩の城へ
岡城の始まりは、伝承で語られます。1185年(文治元年)、この地の武将の緒方三郎惟栄(これよし)が、源義経を迎えるために城を築いたと伝わります。南北朝時代の建武年間には、大友氏の一族の志賀氏が、緒方氏の城を修築したとされます。城跡は、南北朝時代から続いた中世の山城の跡でもあります。
岡城は、難攻不落の名城として知られます。1586年(天正14年)、薩摩の島津氏の軍勢が豊後に攻め入ったとき、城を守る志賀親次は島津軍をくり返し退けました。1593年(文禄2年)、主家の大友氏が豊臣秀吉に領地を取り上げられ、親次も城を去りました。
翌1594年(文禄3年)、豊臣秀吉の命で、播磨国三木から中川秀成が城に入りました。岡藩の初代藩主となった秀成は、3年がかりで城を大きく造りかえ、石垣づくりの城にしました。西の丸は、3代藩主の中川久清のときに築かれました。中川氏は7万石の大名として、13代にわたってこの城を居城としました。
1771年(明和8年)の大火では、本丸や西の丸をはじめ、城の大半が焼けました。岩盤の台地の上に建つ城は、台風や地震の被害もたびたび受けています。明治のはじめに城は廃され、建物はすべて取り壊されました。
岡藩が育てた竹田の城下町
中川秀成が岡城を造りかえたとき、それまでの町に加えて、城の西に竹田町が整えられました。500m四方の町には小路が交わり、水路がめぐります。和歌や華道、茶道、香道にも才を見せたといわれる田能村竹田(たのむらちくでん)は、この町で生まれ育ちました。南画と呼ばれる絵では、第一人者とされる画家です。岡藩の時代の町は、地方の政治と経済、文化の要として栄えました。
殿町の武家屋敷通りと歴史の道
藩の時代、殿町には13軒の武家屋敷が、120mにわたって連なっていました。武家屋敷通りは、その時代の面影を残す通りです。「歴史の道」は、一本の決まった道の名ではありません。城下町をめぐる道をまとめた呼び名で、広瀬神社やキリシタン洞窟礼拝堂、武家屋敷などを結びます。
八幡川横丁と志保屋蔵
八幡川横丁は城下町の小路の一つで、志保屋の通りとも呼ばれます。通りの角に建つ蔵は「志保屋蔵」と呼ばれ、登録有形文化財(国の文化財として登録された建物など)になっています。
岡城と「荒城の月」の瀧廉太郎
竹田は、「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎が、少年のころを過ごした町です。城跡の二の丸には、彫刻家の朝倉文夫が作った廉太郎の像が、遠くの山なみを眺められる場所に立ちます。曲は、岡城をモデルにしたともいわれます。
本丸から見えるくじゅうの山々のことは、くじゅう連山の記事にまとめました。
出かける前に
断崖の上の石垣から入り、七ツ森古墳群、中世から岡藩までの城の歩み、竹田の城下町、瀧廉太郎とのゆかりをたどりました。この記事は2026年10月に書きました。城跡や城下町の様子は変わることがあるので、出かける前に、竹田市観光ツーリズム協会の案内で確かめてください。
よくある質問
- 岡城跡はどんな場所ですか。
- 大分県竹田市の、断崖に囲まれた丘の上にある岡城の跡で、国の史跡です。建物は明治のはじめに取り壊され、高く積まれた石垣が残ります。
- 岡城と「荒城の月」にはどんなつながりがありますか。
- 「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎は、少年のころを竹田で過ごし、曲は岡城をモデルにしたともいわれます。城跡の二の丸には、瀧廉太郎の像が立ちます。
- 七ツ森古墳群はいつごろの古墳ですか。
- 2基の前方後円墳は古墳時代前期の築造とみられ、この地方で最も古い畿内型の古墳と推定されます。1959年(昭和34年)に国の史跡に指定されました。
- 竹田の城下町はいつできましたか。
- 1594年(文禄3年)、中川秀成が岡城を造りかえたとき、それまでの町に加えて、城の西に竹田町が整えられました。岡藩の時代には、地方の政治と経済、文化の要として栄えました。




