2026年10月18日
小鹿田焼の里 唐臼が陶土を砕く日田の谷・一子相伝の窯と柳宗悦
大分県日田市の小鹿田焼の里で、谷川の水で動く唐臼と登り窯の技、男子一人が窯を継ぐ一子相伝の習わし、柳宗悦とバーナード・リーチとのゆかり、池ノ鶴の石積みの棚田までを紹介します。
小鹿田焼の里(おんたやきのさと)は、大分県日田市の北の端、福岡県との県境の谷あいにある焼き物の集落です。谷川の水で動く唐臼(からうす)が陶土を砕き、器は薪を燃やす登り窯で焼き上げます。器をつくる技は、国の重要無形文化財に指定されています。集落のある皿山と池ノ鶴の地区は、重要文化的景観に選ばれました。文化的景観は、自然と人の暮らしが、ともにつくってきた風景のことです。
北に英彦山を控える皿山と池ノ鶴
里の範囲は、小鹿田皿山(さらやま)と池ノ鶴の二つの地区です。皿山には焼き物の窯があり、池ノ鶴には棚田が広がります。
二つの地区は、大浦川と五色谷川がつくった狭い谷の中にあります。谷の北には、英彦山があります。
窯場があるのは、日田市源栄町(もとえまち)の皿山です。「小鹿田(おんた)」は、住所の地名ではなく、皿山の集落のふだんの呼び名とされます。
川の水で陶土を砕く唐臼
皿山の陶土は、まわりで掘り出す黄褐色の粘土です。鉄分が多いため、焼くと黒っぽくなり、火ぶくれや形のゆがみも出やすい土です。ほかの陶器の産地の土と比べて、扱いにくいとされます。
この土を砕くのが、唐臼の役目です。唐臼は川の水の力で動く臼で、木の部分にはアカマツなどが使われています。受け皿にたまった水が受け皿ごと落ちると、その反動で土を砕きます。動きは、ししおどしとよく似ています。
唐臼で土を砕く期間は、20日から30日です。その前に、掘り出した土を10日乾かし、木槌で砕いておきます。細かくなった土は、水を加えて槽の中で何度もこし、泥にします。泥の水を抜き、天日や窯の熱で2か月かけて乾かすと、陶土ができあがります。
唐臼は動くたびに、「ギィ」「ドン」という音を立てます。この音は「小鹿田皿山の唐臼」の名で、1996年(平成8年)に「日本の音風景100選」の一つに選ばれました。
蹴轆轤と飛び鉋・登り窯の技
器の形は、蹴轆轤(足で蹴って回すろくろ)でつくります。模様をつける技には、飛び鉋(とびかんな)や刷毛目などがあります。飛び鉋は鉋の刃で細かな刻みを連ね、刷毛目は刷毛で化粧土(器の表に塗る土)を塗って模様をつけます。どれも、器に幾何学的な模様を残す技です。
釉薬(器の表をおおう、うわぐすり)は、木や藁を焼いた灰などからつくります。色は、緑のセイジ、飴色のアメ、黒のクロが主です。素焼きをしていない器にそのまま掛ける「生掛け」が、釉薬の掛け方の基本です。
模様と釉薬をほどこした器は、昔から受け継がれてきた登り窯で焼き上げます。登り窯は、斜面に沿って焼く部屋をいくつも連ねた窯です。燃料には、まわりの山で採れる杉の薪を使います。
原料づくりから焼き上げまで、機械を使わない手づくりが続いてきました。できた器は、いまも、日々の暮らしで使う器として親しまれています。
小石原から伝わった窯と柳宗悦
皿山の窯の始まりは、江戸時代中ごろの1705年(宝永2年)と伝わります。いまの福岡県の小石原(こいしわら)の陶工、柳瀬三右衛門らが技を持ちこんだとされます。技のもとは、文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)のあとに九州へ渡った、朝鮮半島出身の陶工の技と考えられています。皿山の技法は、小石原焼の影響を強く受けています。明治時代の末までは、甕(かめ)や鉢、壺など、農家で使う日用の器を焼いてきました。
1931年(昭和6年)、民藝運動を唱えた柳宗悦(やなぎむねよし)が皿山を訪れました。民藝運動は、ふだんの暮らしの道具に美しさを見いだす運動です。久留米(福岡県)の陶器店でこの地の器を見つけたことが、訪れるきっかけでした。柳は、伝統の技法と、飾り気がなく力強い作風を高く評価しました。それまで「日田もの」と呼ばれていた器を、「小鹿田焼」と呼ぶよう勧めたのも柳です。『日田の皿山』や『手仕事の日本』で、この地の器を世に紹介しています。鉄分の多い土の色に、模様と釉薬が重なる器の味わいは、柳の唱えた「用の美」(使う道具の美しさ)の表れといわれます。
この地の器が全国に知られたのは、イギリスの陶芸家バーナード・リーチが、1954年(昭和29年)に訪れたあとです。その名は、小石原焼とともに海外にも広まりました。民藝運動に賛同したリーチは、1964年(昭和39年)にも皿山に滞在して、器をつくっています。
重要無形文化財と重要文化的景観
男子一人が継ぐ窯と一子相伝
小石原から伝わった昔の技法がよく残ったのは、代々、弟子を取らなかったためとされます。技は、後継ぎだけに伝える一子相伝で受け継がれてきました。窯は家族で営まれ、家ごとに男子一人が窯を継ぐ習わしが、いまも続いています。
家族で営む窯が続いてきたのには、谷の事情もあります。唐臼を動かす大浦川の水の量、狭い谷で窯を築ける土地、薪の量、売る先とのつり合いが、つくれる量をおのずと決めてきました。窯元どうしは土を共同で採り、器に個人の銘を入れるのを控えて、焼き物の質と名を守ってきました。
1995年(平成7年)5月31日、この技は工芸技術の重要無形文化財に指定されました。文化庁の解説は、地元の原料と昔からの道具を使う技法が、もっとも純粋に受け継がれている点を挙げています。保持団体には、窯元でつくる小鹿田焼技術保存会が認められました。
池ノ鶴の棚田と谷の水・土・木
2008年(平成20年)3月28日、皿山と池ノ鶴の二つの地区は、重要文化的景観「小鹿田焼の里」に選ばれました。焼き物の皿山と棚田の池ノ鶴は、どちらも谷の水と土と木を生かした仕事の場です。窯業と農業の仕事が、この谷の暮らしのありようを示している点で、重要な文化的景観とされます。
池ノ鶴地区では、いまも田の営みが続き、シイタケの栽培や杉を使った薪炭材(薪や炭にする木)の生産もおこなわれています。田は、「除け」と呼ばれる水利(水の引き方と使い方)の仕組みに支えられています。急な斜面に続く棚田の石積みには、この土地にあるプロピライト(変朽安山岩)という岩が使われています。
重要文化的景観では、昔の形を変えずに残すのではなく、地域の移り変わりに合わせて守る「動態保存」が目指されています。文化的景観という文化財は、2005年(平成17年)の文化財保護法の改正で生まれました。
出かける前に
皿山と池ノ鶴の谷、唐臼と登り窯の技、柳宗悦とリーチが広めた歩み、二つの国の文化財をたどりました。この記事は2026年10月に書きました。唐臼や窯のようすは変わることがあるので、出かける前に、日田市観光協会の案内で確かめてください。
よくある質問
- 小鹿田焼の里はどこにありますか。
- 大分県日田市の北の端、福岡県との県境の谷あいにある焼き物の集落です。窯のある皿山と、棚田の広がる池ノ鶴の二つの地区が、重要文化的景観「小鹿田焼の里」に選ばれています。
- 唐臼とは何ですか。
- 川の水の力で動き、陶土を砕く臼です。動くたびに「ギィ」「ドン」と音を立て、この音は1996年(平成8年)に「日本の音風景100選」の一つに選ばれました。
- 小鹿田焼が重要無形文化財に指定されたのはなぜですか。
- 文化庁の解説は、地元の原料と昔からの道具を使う技法が、もっとも純粋に受け継がれている点を挙げています。代々、弟子を取らなかったことも、小石原から伝わった技法がよく残った理由とされます。指定は1995年(平成7年)5月31日です。
- 柳宗悦とバーナード・リーチは、小鹿田焼とどう関わりましたか。
- 柳宗悦は1931年(昭和6年)に皿山を訪れて技法と作風を高く評価し、「小鹿田焼」と呼ぶよう勧めました。リーチは1954年(昭和29年)に訪れ、そのあと、この地の器は全国に知られるようになりました。




