
2026年10月18日
豆田町と咸宜園 天領日田の町並みと広瀬淡窓の私塾・水郷の三隈川
大分県日田市の豆田町には、江戸時代の初めの町割りと、大火のあとに広まった居蔵造の町家が残ります。天領として栄えた日田の歩み、広瀬淡窓が開いた私塾の咸宜園、三つの丘の伝承が残る三隈川までをたどります。
豆田町(まめだまち)は、大分県日田市の市街地の北部で、花月川の南岸に広がる古い町並みです。江戸時代の初めに開かれた通りに沿って、瓦屋根の町家や土蔵、近代の洋館、醸造の蔵が建ち並びます。日田の市街には、この町で生まれた広瀬淡窓が開いた私塾の跡、咸宜園もあります。市街の南を流れる三隈川には、日田盆地の成り立ちを語る言い伝えが残ります。
豆田町に残る江戸初期の町割り
町の骨組みは、南北に通る2本の道と、東西に通る5本の道です。南北の2本は、御幸通りと上町通りと呼ばれます。通りの並びや、通りに面した敷地の区切りは、江戸時代の初めに、城下町が築かれたときの形を受け継いでいます。
いまの町は、石川忠総が城下町を花月川の南岸へ移してできました。城の名を、丸山城から永山城に改めたのも忠総です。丸山城は1601年(慶長6年)、川の北岸の丸山に築かれました。最初の町は、その城の東に商家を移して開かれました。
町の中には、道がかぎの手に折れるところがあります。先を見通せないようにして、攻めてきた敵を待ち伏せるための造りといわれます。距離の感じを狂わせるためとする説もあります。こうした造りは枡形(ますがた)と呼ばれ、城下町によく見られます。
天領日田の中心になった町
町人の町として栄えたのは、江戸幕府が直接治めた天領の時代です。市街の南部の隈町とともに、この町は九州の商業と金融の中心の一つになり、筑後川を使った水運もその商いを支えました。こうして栄えた日田は、いまでは九州の小京都とも呼ばれます。
日田が「天領日田」と呼ばれるのは、1639年(寛永16年)に、日田郡が一部を除いて幕府の直轄地になったためです。1767年(明和4年)には、代官より格上の西国筋郡代が置かれました。日田は、幕府が西国を治める拠点として重みを増しました。幕府の役所の日田陣屋は、旧永山城の跡にありました。
大火のあとに広まった居蔵造の町家
町並みには、建った時代ごとに造りの違う家が並び、景色に変化をつくっています。中心になるのは、居蔵造(いぐらづくり)の町家です。瓦屋根をのせ、木の部分を土で塗りこめた造りで、江戸時代から大正時代にかけて建てられました。あいだには、木の部分を外に見せる真壁造の町家や、近代の洋館、醸造の蔵、昭和の初めの三階建ての家も建ちます。
町家は茅葺(かやぶき)から居蔵造へ変わっていきました。きっかけは、1772年、1880年、1887年とくり返した大火です。
町並みは2004年(平成16年)12月10日、商家町として、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。約10.7ヘクタールの範囲に、昔の地割りと伝統的な建物の群れがよく残ることが、選定の理由です。町並みは、国土交通省の「美しいまちなみ大賞」も受けています。保存地区の北部にある長福寺の本堂と、南部にある大きな商家の草野家住宅は、国の重要文化財です。
広瀬淡窓が開いた私塾の咸宜園
咸宜園(かんぎえん)は、日田の儒学者・広瀬淡窓(ひろせたんそう)が開いた私塾の跡です。跡地には、江戸時代に建てられた居宅の秋風庵(しゅうふうあん)と、書斎の遠思楼(えんしろう)が残ります。日本最大規模の私塾とされ、1932年(昭和7年)7月23日に、「咸宜園跡」として国の史跡に指定されました。
「咸宜」は、中国の古い詩集『詩経』からとった言葉で、「ことごとくよろし」という意味です。塾では「三奪法(さんだつほう)」により、門下生をみな同じ立場で教えました。三奪法は、入門する人の学歴・年齢・身分の三つを問わない仕組みでした。身分や階級の決まりが厳しかった時代に、淡窓が選んだ教え方です。
門下生の学力は、月旦評(げったんひょう)と呼ばれる月ごとの成績の発表で示されました。入門のときはだれもが無級で、毎月の試験の結果によって、一級から九級までの級を上がり下がりしました。学んだのは儒学の書物だけではなく、講義は数学や天文学、医学にも及びました。
塾の歩みと学んだ人
塾が咸宜園の名になったのは、1817年(文化14年)にいまの場所へ移ったときです。始まりは1805年(文化2年)で、淡窓が長福寺の学寮を借りて開いた塾でした。塾はそこから、場所と名を変えて移っていきました。
淡窓が亡くなったあとも、塾は広瀬旭荘や広瀬青邨ら門下生に受け継がれ、1897年(明治30年)に閉じるまで続きました。学んだ人には、蘭学者の高野長英や、のちに日本の陸軍の基礎を築いた大村益次郎がいます。2015年(平成27年)には、日本遺産の「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」が認定されました。咸宜園の跡と町並みは、どちらもこの日本遺産を形づくる文化財です。
三つの丘の伝承が残る三隈川
三隈川(みくまがわ)は、日田市内を流れる筑後川の上流の呼び名で、玖珠川が合わさるところから下流を指します。市街の南では日隈山が川の流れを二つに分け、山を中心に亀山公園が広がります。市内では、花月川や高瀬川などの支流も合わさります。豊かな水に恵まれた日田は、「水郷日田」と呼ばれてきました。
三隈川と、日隈・月隈・星隈の三つの丘は、湖の水が流れ出たあとに現れたと伝わります。『豊西記』という書物に残る言い伝えでは、大昔の日田盆地は湖でした。東から来た大きな鷹が羽をひたして北へ去ると、大地が鳴りひびき、湖の西の端が崩れたといいます。三つの丘のうち月隈は、丸山城が築かれた丸山(月隈山)にあたります。
日田は江戸時代から木材の産地で、三隈川は切り出した木材を運ぶ道でもありました。杉などの木は筏に組まれて川を下り、米や品物も下流の町へ運ばれました。筏流しがおこなわれていたころは、銭淵と呼ばれる淵のあたりに、上流からの木材が集まりました。川を使った木材の運搬は、1953年(昭和28年)に終わりました。
三隈川の広い水面は、舟遊びの場にもなりました。屋形船から鵜飼を眺める川遊びは、天領の時代に盛んになったと伝えられます。鵜を使って鮎などの魚をとる鵜飼そのものは、日田を治めた豊臣秀吉の家臣が、岐阜から鵜匠を招いたのが始まりといわれます。
出かける前に
江戸初期の町割りと天領日田の歩み、居蔵造の町並み、広瀬淡窓の咸宜園、三つの丘の伝承が残る三隈川をたどりました。この記事は2026年10月に書きました。町並みや史跡のようすは変わることがあるので、出かける前に日田市観光協会の案内で確かめてください。
よくある質問
- 豆田町はどんな町並みですか。
- 大分県日田市で、花月川の南岸に広がる、江戸時代の初めの町割りが残る町並みです。大火のあとに広まった居蔵造の町家を中心に、洋館や醸造の蔵も建ちます。2004年(平成16年)に、商家町として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
- 日田が「天領日田」と呼ばれるのはなぜですか。
- 1639年(寛永16年)に、日田郡が一部を除いて江戸幕府の直轄地(天領)になったためです。1767年(明和4年)には代官より格上の西国筋郡代が置かれ、日田は西国を治める幕府の拠点として重みを増しました。
- 咸宜園ではどんな教え方をしていたのですか。
- 入門のときに学歴・年齢・身分を問わない「三奪法」により、門下生をみな同じ立場で教えました。毎月の試験の成績で、門下生の級が上がり下がりしました。
- 三隈川にはどんな言い伝えがありますか。
- 大昔の日田盆地は湖で、湖の西の端が崩れて水が流れ出たあとに、三隈川と日隈・月隈・星隈の三つの丘が現れたと伝わります。『豊西記』という書物に残る話です。




